
蔵王古道
刈田嶺神社里宮から刈田岳山頂に建つ奥宮まで
標高差1450m、距離15km
ふたつの社殿をつなぐ いにしえの道 蔵王古道


いにしえの道 蔵王古道
今から1200年ほど昔、蔵王の山は、当時「刈田嶺」「不忘山」と呼ばれ、山そのものが、神さまとして祀られていました。その後、奈良の吉野で発祥した修験道が全国に広まり平安時代の後半には、「刈田嶺」も修験の場となり、山伏たちが山頂に蔵王権現を祀ったことから、いつしかこの山は「蔵王山」と呼ばれるようになったのです 。
江戸時代中ごろから、庶民の生活が安定し余裕が生まれ旅行文化が花開き、遠刈田を出発点とし賽の碩を経て刈田山頂を目指す蔵王御山詣りが誕生したのです。
300年ほど前から続いてきた蔵王の御山詣りは、明治維新の神仏分離令によって多少のダメージを負うものの、太平洋戦争後まで盛んに続けられていました。1962年蔵王エコーライン(自動車道)が開通すると観光化が一気に進み蔵王古道は廃れていき、古道を歩く者はいなくなり、いつしかその存在すら忘れられてしまいました。
御山詣りで歩いた道は、一部エコーラインに重なり寸断されているものの、2014年に4年の歳月を掛けて、半世紀ぶりに復活することができました。
蔵王古道ご紹介



もとは蔵王大権現御旅宮(冬季に蔵王大権現をまつる社)といい、蔵王の御山詣りの出発点となっていました。
青根道から左に折れると『蔵王参詣表口』となります。
かつては御山詣りの一の鳥居がありました(二の鳥居は小妻坂または棚村、三の鳥居は円田字大鳥)。
1合目
参詣路沿いにある湧水地。
昔は石組みの水浴場があり、参詣者が水垢離をする場所となっていました。
また、ここより山上には目立った湧水地はなく、給水地としても重要でした。
弘法小屋は青根方面からの参拝者受け入れの管理所で、山伏が常駐していました。
青根方面からの石碑が残っています。
三階滝・不動滝・地蔵滝が見渡せる景観スポット。
昔は御小屋とよばれる出張社務所が設けられ、青根方面からの参詣者の御祓いを行うとともに、参詣者の休憩所となっていました。



不動滝は、不動明王に由来する滝です。
参詣者はここで滝行することもありました。
石の不動尊をまつり、山伏が常駐して休憩や祈祷などを行っていました。
昭和6年、大吹雪によりこの地で亡くなった息子さんを弔うため、ご両親が建立した碑です。
「千畳の雲山、千畳の愁い一天の名月、一天を恨む。」意訳「雲に包まれた山が幾重にも折り重なっているように、私の愁いは果てることがない。
月は美しく天に輝いているが、私は天を恨めしく思う。



賽ノ磧の入口にある石仏や石碑でできた塚。
参詣者が持参した小さい石仏や卒塔婆を供える場所でした。
この近くに「姥が大日」という場所があり女性はここまでしか行けませんでした。
女人禁制は大正8年に解かれました。
生と死の境界を流れる三途の川。
賽ノ磧は、荒涼とした石河原が果てしなく広がる三途の川の河原です。
その様子が似ているだけでなく、蔵王の御山詣りの観念的なテーマ『生れ変り』にも合致していることから、蔵王山麓の溶岩原を賽ノ磧・三途の川と呼びました。
賽ノ磧は濁川によって開析され、200mもの断崖となって終息します。
この断崖の奥に「不帰の滝」があります。
御山詣りでは、三途の川を渡って死後の世界に足を踏み入れ、この世には戻れないことの象徴でした。



ここから御沢駆け、御峯駆けの2コースに分かれます。かつては、御沢駆けで登り御峯駆けで下ったとか。
昔は浄土口と呼ばれ、弘法大師の石像が安置されていました。
現在は、大黒天と呼ばれています。
蔵王連峰五色岳の、およそ800年前の噴火によって火口にできた湖です。
御山詣りでは、この湖水を『閼伽( 仏に供え備えたり、身を清めるための清浄な水)』と考え、身を清め山上に登りました。
もとは蔵王大権現奥宮と呼ばれていました。
山開き期間中、蔵王大権現を祀っていました。
蔵王の御山詣りではゴールに当たり、ここで祈祷を受けることにより、一度の参詣が完了します。
蔵王古道の会